プロフィール

 自己紹介させていただきます

子どもの頃からコンピューターが好きでした

今回、私(のりっく)のことを始めて知ったという方も多いと思いますので、簡単に自己紹介をさせていただきます。

1986年1月24日、兵庫県明石市で生まれ、中学校までは地元の公立で普通に暮らしていました。小学校の頃はおとんのワープロを使って、罫線で迷路を作って遊んだ記憶があり、コンピュータはその頃から好きだったようです。

はじめてパソコンを触ったのは、小学校5年ぐらいですかね、友達の親がFUJITSUのFMVというデスクトップパソコンを買ったらしく、そこにヨットとかいうサイコロのゲームが入っていて、それをやらしてもらった事です。

その後、電話のアナログ回線を使ったインターネットが登場します。私はコロコロコミックで、ポケモンのホームページがあるということを知って、インターネットをやりたかったのですが、親はインターネットに興味がなく、「お金がかかることはやめよな」と言って、残念ながらインターネットを契約してもらうことはできませんでした。

さらに何年かすると、インターネットがさらに普及し、電話代が安くなるプライムタイムや定額でできるテレホーダイというプランが登場し、ようやく我が家でも他の家より早めにインターネットが使えるようになりました。

中学校の頃はインターネットにはまって、放課後学生タウンというチャットをよくやっていました。あと、ICQってうメッセンジャーとか、20代の人は多分知らないようなものがたくさんあったんです。ホームページも作っていました。最初はポケモン赤緑の攻略本をそのまま全部載せたようなサイトや、モーニング娘のリンク集だけのサイト、Whiteberryというバンドのやはりリンク集だけのサイト。

その頃、レンタルサーバーを借りて、Perlをちょっといじってチャットを設置とかもやっていました。当時はチャットってサーバーに不可が大きいから、なかなか無料で設置できるところってなかったんですよ。Perlをいじるって言っても、プログラミングなんかできないので、配布されたチャットプログラムのReadmeに書いてあるようなことだけですよ。

プログラミングもやってみたい!と思って、「独習C言語」のような本も頑張って買ったのですが、当時は誰の教えもなかったので、全く理解できませんでしたね。あの頃誰かが教えていてくれて、プログラミングに火がついていれば、mixiを開発していたのは私だったかもしれないのに・・・。

私は商業高校ならプログラミングの授業がある事を知ったので、中学3年のとき、進路相談の三者面談では「県立商業高校に行きたい」と言いました。しかし親は商業高校=女子や学力低い人がいくところというイメージがあったらしく、「潰しがきくから」という理由で、普通科のふつーの県立高校に進学することになりました。(潰しがきくって、文字通り潰されるから気を付けてねw)

県立高校では選べる中から一番家から遠い所に行きました。遠くが好きなのと、唯一その高校は見学にいったときにルーズソックスを女子がはいていたからです。私はルーズソックスをはいた女子が好きだったので、その高校を選びました(笑

高校ではなぜか勉強にスイッチが入り、大阪市立大学の工学部がC判定が出るくらいになりました。しかし、高校3年生の夏、塾の自習室で物理の勉強をしていたとき、急に頭が痛くなったのです。楕円の軌道を求めるような問題を解いていたのですが、もう頭がついていかなかったのかもしれません。そこで、物理の勉強はもうやりたくなくなったのです。

物理は嫌だ、生物学を勉強して環境問題を解決する!と思い立って、なんとか沖縄の琉球大学理学部生物系というところに入学することができました。ただし、例に漏れず大学では全くといっていいほど勉強もせず、兵庫から沖縄に行かせてくれた両親に、成績表を見せるのが気まずい4年間を過ごしました。

大学卒業時は、就職する気はありませんでした。今思うと、そもそも働く気がなかったようです(社会人になってから大いに困るのですが)。それでも4年生の終わりにはみんな進路が決まってますから、私は漫才師になってM-1グランプリで優勝する!と回りには言っていました。研究室の先生には、「お前は賢すぎるから漫才師は向いてない」と言われていました。

大学卒業後、1年間で貯金、次の1年はバックパッカー

3つの仕事を転々として、80万円貯金する

4年間で大学を卒業してから、母親の実家の西宮付近に住みながら、大阪の会社の太陽光発電の訪問アポインターになりました。完全歩合制の仕事だったので、アポをとればとる程、給料がたくさんもらえるからです。そのときの自分の考えは、1ヶ月で100万円稼いで、海外旅行に行くぞ!でした。親は裏切られた気分だったでしょう。何のために4年間も遠くの大学に行かせたのか・・・。

最初の2ヶ月ぐらいはそこそこアポが取れて、月に26万円ぐらいはもらえていました。しかし、3ヶ月目には民家のインターホンを押すのが嫌になってしまいました。断られてばっかりで、アポを取れる気がしなくなったからです。さらに、アポが取れても、いざ太陽光発電のローンを組む段階で、お客さんがローンを組めない、いわゆる「ブラック顧客」ということもあり、なんかしんどくなってしまったのです。この仕事は3ヶ月ほどで辞めてしまいました。

その後、同じく大阪の電子ブレーカー(電子ブレーカーなんか知りませんよね?笑 電気代が安くなるブレーカーだと思ってください。)を販売する会社の営業職に就職しました。固定給+歩合給なので、早く稼いで海外旅行!と思っていたからです。そこでもまずは、電話でのアポインター。NTTの電話帳を見ながら、いろんな業種の工場に電話をひたすらかけました。「電気代が安くなる」というのは悪い話しではないので、何件かはとれました。それでもやはり、3ヶ月ぐらいで「ここでは稼げるようにはならないな」と思い、辞めてしまいました。同期で入った20人ぐらいも、全員辞めていました(笑

太陽光発電、電子ブレーカーを辞めてしまい、お金も全く貯まっていませんでしたので、「このままでは、いつまで経っても海外旅行には行けない」焦ったので、次は固定給で手堅く稼ぐことにしました。今思うと、普通に就職していても、実家から通えば半年で100万円ぐらいは貯まりますよね。アホでした。うん。

どうしようかと思っていたところ、渡りに船、沖縄のときの先輩から、「灯油の巡回販売」の仕事を紹介されました。冬の間住み込みで働いて、3.5トンのトラックに灯油を積んで、住宅地を回るというものでした。その仕事を11月~2月まで無事にやりとげることができて、80万円ぐらい貯金することができました。

晴れてそこそこの貯金ができ、3月からバックパッカーの旅にでかけました。

まずは九州から韓国の釜山にフェリーで渡り、そこで1泊1000円ぐらいの安宿に泊まり、ひたすらユーラシア大陸の西端を目指しました。「なぜ海外?」というところは、死ぬまでに行ってみたかったからというのと、社会の地理の授業が好きだったからです。

釜山の後は、ソウルから船で中国の青島へ、陸路でベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、マレーシア、シンガポールと南下しました。

シンガポールから飛行機でインドへ飛び、インドとネパールを回りました。ヒンズー教の聖地バラナシで沐浴し、カトマンズでヒマラヤ山脈の山々を見て、最高の気分でした。

インドから飛行機でエジプトへ飛びました。エジプトからヨルダン、シリア、イスラエル、レバノン、トルコを陸路で回りました。当時は2009年でしたが、シリアは平和な時期で、今のようなISILがいなくて安全に回ることができました。私が回った頃の、パルミラ遺跡やアレッポは今は破壊されてしまい、残念な姿になっているようです(ほら、行っておいて良かったでしょ?笑)。

トルコの後はようやく憧れのヨーロッパへ。ギリシャへと南下し、ギリシャから船でイタリアのバーリへ渡りました。その後陸路で、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ベネチア、ミラノ、トリノを回り、電車で南フランス、スペインを経てポルトガルに行きました。ポルトガルの西端のロカ岬で記念撮影をして、ようやく旅は一段落。

その頃、ちょうど80万円が尽きかけてきたので、祖父が死んだときに残してくれた株券を、当時の時価である45万円分と親に交換してもらいました。ポルトガルの後は、再度スペインへ戻り、陸路でパリ、ベルギーのブリュッセル、オランダのアムステルダム、ドイツのベルリンなどを経由して、飛行機でロンドンへ。

ロンドンからドバイ経由の飛行機で関西国際空港へ戻ってきました。それが旅に出て1年後の2月です。帰国して1ヶ月は実家で休んでいました。実家の人は大学を卒業して定職につかずプラプラしている私を、冷ややかな目で見ていました。誰も旅の話など進んで聞こうとしませんでした(笑

24歳までプログラミングとは無縁

24歳の春に憧れの東京にやってきました。そこでまずは、テレビ番組の制作スタッフの派遣会社に入りました。そこで半年ほど、「スッキリ」の小さい特集コーナーを作る会社に派遣され、ADをやりました。現場までビデオカメラをもっていったり、帰ってきてテープの内容をHDDに取り込んだりして。

でも、HDDにテープを取り込む作業がロケの翌朝までにやらないといけなくて、深夜残業しないといけないことと、月給が16万円で安すぎたんで半年ぐらいで辞めました。加藤浩二さんや天の声の南海キャンディーズの山ちゃんに会えたりして、おいしい面もあったんですけど、「これじゃあ金持ちになれないな」と思って辞めました。

この頃、アフィリエイトっていうネットビジネスを知って、月額5000円の塾に入ってやり始めました。独り身で仕事もないため、時間をフルに使ったら、月収15万円を超えるぐらいになったんです。月収15万円を超えるまでに、いろんな商品を紹介するページを800ページぐらい作りました。でも、「これ続けても月収15万円が限界だな」って思いはじめていました。

そんな上京した最初の冬、基金訓練という超おいしい制度があるのを知ったんです。

ときのリーマンショックに救われた

そのとき、世界はリーマンショックに見舞われていて、「派遣切り」とかいう言葉が日本をにぎわしていました。若い無職の人が増えていたらしく、政府がそういう人を対象に、月に16万円ほど生活費をもらいながら、職業訓練に通えるという制度でした。

基金訓練(ききんくんれん)は、日本の緊急人材育成・就職支援基金による職業訓練であった。 雇用保険を受給できない人を対象に、無料で職業訓練を行っていた。 2011年(平成23年)9月開講分をもって終了し、10月以降は求職者支援訓練に引き継がれている。
基金訓練 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/基金訓練

その制度をネットの広告で見つけて、どんな訓練があるのかな~って見てみると、I-TINK ITスクールといって、五反田のTOCビルで半年間、PHPを勉強しましょうという訓練がありました。

「これはアフィリに役立つ!」と思って、すぐに応募。面接も簡単に合格し、半年間、ショッピングサイトの作成を通じて、PHP、SQL、HTMLを身に着けるスクールに通ったのです。朝10時~夕方3時くらいまでの超ゆるいスクールで、大半の人はお金をもらいにだけ来ていたと思います(笑。多分、あのスクールで身に着けたことを活かして就職したのは数名しかいない。明らかに、さすがにもうプログラマーにはなれなさそうなおばちゃんやおじさんも半分くらいいて、その制度は数年後、民主党の「仕分け」によって、消されてしまったのである。笑

憧れのIT業界へ就職できた

基金訓練の生徒を採用したら、採用した会社に補助金が支給されるという制度があったんです。その制度のおかげで、私はハローワーク経由でなんとか小さいSIerに入社することができました。

最初の1ヶ月目は、社内でJavaの勉強をしながら、受託案件を手伝わせてもらいました。中国人が多い会社でしたが、みんないい人でした。2ヶ月目からは新宿の現場に常駐することになりました。

X++って知っていますか?

最初の案件は、MicrosoftのDynamics AXというERPの改修案件でした。そこに同期入社のTさんと一緒に入り、優しいプロパーさんに恵まれて、無事に実務をスタートすることができたのです。このとき、25歳くらい。

そのDynamics AX、言語はX++。聞いたことないでしょ?X++て。まあ、MicrosoftのVB.NET系の開発環境です。それを数ヶ月やっていたのですが、自分は「Java」がやりたかったので、早々に自社の営業に「Java案件に入れて欲しいです」とお願いし、常駐先を変えてもらうことができました。ぺーぺーの新人がなかなか客先に入ることは難しいのに、受け入れてくれてたプロパーさんに申し訳なかったです。

そして大塚の富士通関係のJava案件に入ることができました。そこは保守案件で、地道に設計書の修正とコーディング、単体テストなんかやっていました。地味な保守ですが、Javaの経験を積めたのでよかったです。そこも半年ほどで案件終了とともにさよならでした。

次に入ったのが、両国で、SAStrutsを使ったフルスクラッチの案件。この現場がすごいよかった。やっぱりゼロから作っていくのは、作り手にとってはとても勉強になるもんです。

俺ってできるやん!

そのSAStrutsの案件ね、自分の会社から4人(リーダー、35歳の日本人Oさん、中国人、私)で入ったんですが、そのうちの1人Oさんが多分35歳ぐらいだったと思うんですけど、とにかくこの人が仕事ができない。もうバグだらけ。「えっ?この人、今までエンジニアとしてよくやってこれたね?」と思うレベル。

最初のうちは、私は一番若かったので、中国人の人にSAStrutsを教えてもらいながらだったのですが、「あなた覚えるのとても早いですねー」と褒められました。自分でも「Seasar2徹底入門」という本を買って、この機能を実装するにはどうすればいいか?って自分で調べて、それが実現できるというのが楽しくて、とても充実していました。

リーダーからも、「君の開発速度が上がってきた」とか、何か議論するときは「君の言ってることが正しいよ」とか褒められて、「俺ってこの仕事向いてるわ!」とうぬぼれていました。よくリーダーがOさんを叱っていて、「お前はもう他のやつをひっぱっていく立場なんだから、しっかりしないとダメだろ」なんてのがよく聞こえてきました。Oさんの作った画面のバグを私が対応することがあったのですが、もう、「明らかに、分かっていてバグ残してるでしょ?」っていうレベル。

その後のいくつかの現場でも、そういう30中盤~40代の全く仕事ができない、というか仕事として成立していないレベ

ルの人が、自分より上のポジションとして現場に入ってるのを見て、「俺絶対この仕事向いてるわ、やっていけるわ、俺めっちゃ仕事できる人やん」って思っていました。私は勝手にうぬぼれてるだけなんですけど、本当にダメなエンジニアっていますよね?よくそれでやってこれたね?的な人。今までよくやってこれたなって本当に不思議です。

退屈、楽しくない、辞めたい!

エンジニアになって2年目か3年目に、奥さんが妊娠し、子どもが生まれました。そのとき、私は2ヶ月間ほど育児休暇をとりました。男性でも育児休暇って全然とれますよ、特に小さい会社はとりやすいんじゃないですかね。奥さんが10歳年上なので、子どもを産むなら早いほうがいいということがあり、翌々年には2人目が生まれました。両方とも男の子です。なんと2人目が生まれたときも、1ヶ月間育児休暇をとりました。おかげで会社は「男性社員にも育児休暇をとらせるゆるい会社です」とういうアピール材料になり、よかったみたいです。

2人目のこどもが1歳になるころ、2人を保育園に預けました。しばらくは奥さんが育児休暇をとっていたので、保育園の送迎も家事もやってくれていたのですが、1年ほどして奥さん会社に復帰することになりました。そうすると、奥さんに送迎も家事もやってもらうわけにはいかないので、私が夕方の迎えを担当することになりました。私は定時退社の良い口実ができたと内心喜んでいました。

定時退社希望のため、常駐したのは工場の生産管理システムを保守するJava案件でした。たまに機能追加もありました。もうその手のレベルなら1人でこなせるようになっていました。毎日定時になるのを待っては保育園に迎えに行くという日々が続きました。

正直この頃は、全く楽しくなかったです。このままエンジニアを続けても、大した給料にはならないと思っていたので、夜や土曜日の午前中はアフィリをしていましたが、なかなか収入は増えませんでした。収入を増やすために、アフィリをする時間が欲しい!でも子育てで大変!時間が全くない!という状態になってしまいました。

保守の仕事はとても楽ですが、おもしろみが全くありません。なんてったって、Java1.4とか謎のninja-vaというフレームワークで作られた画面の修正作業ですよ。定時で上がれるのはいい事だったので、私は満足しているフリをしていたのですが、深層心理では不満が溜まりに溜まっていたようです。

会社と育児で忙しい奥さんとの仲もぎすぎすして、毎週1回は必ず喧嘩。翌日は喧嘩で疲れて会社でボーーーっとしているということがたたありました。「こんな人生もう嫌だ、なんとかなりたい」そんな日々が続き、とうとう私はある日、会社を急に休みました。そして、客先のリーダーに「会社に行きたくないので、会社休みます」とSMSを送りました。すると、客先で騒ぎになったらしく、自社の営業にもすぐ連絡がいき、営業から私に電話がかかってきました。

私はもう辞めることを決断していたので、営業に「会社辞めます」と伝えました。1週間ぐらい休ませてもらって、会社に戻り、引き継ぎをして、とうとう会社を辞めてしまいました。31歳の時でした。

え!!!私でもWeb系の企業に転職できるんすか!?

会社をやめて、アフィリ塾に入ったのですが、全く報酬は増えませんでした。ノウハウを渡されたり、月に1回懇親会があったりするのですが、いざ1人でホームページを更新する作業をしようとすると、まったく手が進みませんでした。会社をやめた最初の1ヶ月は「よし!これでたっぷりアフィリができるぞ!稼ぎまくる!」と意気込んでいたのですが、2ヶ月目にはもうモチベーションは完全に下がり、家でオナニーをする日々になっていました(w

そんな日々がずっと続くわけもなく、雇用保険も半年で支給されなくなり、このままだと貯金がなくなるので、再度就職することになりました。とても不甲斐ない気持ちでした。「アフィリで成功して金持ちになる!自由も手に入れる!」と意気込んで会社を辞めたのに、1年もたたずにまたサラリーマンに舞い戻るのですから。

半年離職した後での転職活動

とはいえ、Javaの開発ができれば食うには困らないだろうと思っていたのは当たっていて、システムエンジニアの求人はたくさんありました。最初はリクナビNEXTで前職と同様のシステムエンジニア職を探していたのですが、応募した企業の書類選考には全て通りました。

しかし、なかなか一次面接を通過することができませんでした。私は、どうせSEって引く手あまたなんでしょ?というマインドで転職活動をしていたので、「前職を辞められた理由は?」という質問に適切に答えることができませんでした。

それでもなんとか1社からシステムエンジニアとして内定を出してもらい、しかも給料が60万円ほどアップの480万円という条件でした。私はほっとしていましたが、「あぁ・・・またあの日々か・・・」とあまり前向きに働く気持ちにはなっていませんでした。

転職エージェントに出会い、希望の光が!

そんなとき、リクナビNEXTの受信BOXに転職エージェントからのスカウトメールが届いていました。それは、Web系の企業を紹介します!という内容でした。

もう内定はもらっていたのですが、転職エージェントが紹介してくる企業が魅力的だったので、内定先への最終返事は待ってもらい、転職エージェント1社とコンタクトをとり、もうしばらく転職活動を続けることにしました。

そこでも私は「最寄り駅に来てくれるなら、会ってもいいですよ?」という態度でした。それで最寄り駅の喫茶店でエージェントさん2人と面談をしたのですが、それが転機になりました。

エージェントさんが、「あなたは今後どいうキャリアプランを考えていますか?」と聞いてきたので、私は「チームリーダーになって、メンバーをひっぱっていきたいです」的な回答をしていたのですが、「インターネット関連の企業に勤めたいです」とも言いました。

エージェントさんが、「Web系の企業っていうことですね?」と確認したので、実は私は内心は「知名度のあるBtoCのインターネットビジネスをしている企業で働きたい」と思っていたけど、諦めていたことを思い出しました。なぜなら、その手の企業はPHPやPythonという言語が好まれるからです。私にはがちがちの業務システムのJavaの経験しかなかったので、無理と思っていたのです。ですが、エージェントさんが、「あなたの職務経歴でもマッチするWeb系の企業はありますよ」と言われました。

「え!私でもいけるんですか!?」と嬉しくなりました。会社も変な形で辞めてしまった。Javaの業務システムの経験しかない。それでも入れるWeb系の企業があると言ってもらえたからです。

「ではその方向で求人を探していきますね」と方向性が決まり、その場でも何件か求人票を見せてもらったのですが、確かに私が勤めたい、ここなら絶対頑張る!と思えるようなインターネットビジネスの企業がありました。例えば、アフィリエイトのASPを運営していて、私も登録している東証上場企業、そしてサイバーエージェントなどです。

Web系の企業、全滅

結果からすると、それらの企業、全滅してしまいました。書類選考は通ります。でも、一次面接で簡単に落ちてしまいます。

Web系の企業で良く聞かれるのが、「どんな技術に興味ありますか?」です。そこで私は、一応アカウントだけ作ったことがあるので、「AWSに簡単なアプリを作ってデプロイしてみました」と答えるのですが、それ以上は盛り上がりません。やはり技術者面接は、技術で盛り上がれないといけないんだなと感じました。「これから使って見たいライブラリとかありますか?」って聞かれたのですが、あるはずもなく・・・楽して仕事していきたいとしか思っていませんでしたからね。

Web系の企業では必ず技術テストがありました。それらは解くことができるものもありました。しかしそれ以上に、最新の技術に関心があり、常日頃からものづくりに活かそうとしているかという、エンジニアとしての姿勢が問われているような気がしました。

エージェントさんには、今私は480万円の内定をもらっていますと伝えていたので、それを上回る提示をしてくれる可能性のある、SIerも受けていました。エージェントさんが紹介してくれるSIerは、リクナビNEXTで見るようなSIerではなく、自社で製品を作ったり、なんらかの尖った技術を持っているような、雰囲気の良いSIerが多いです。ごりごり業務システムのSIerではありませんでした。

でも、年俸500万円にアップ

そのSIerのうちの1社から、内定をもらっていた480万円を超える、500万円を超えるオファーをいただき、しかも一部上場企業のグループ会社だったので、ここなら奥さんも喜びそうだなと思い、私はそっちにいくことにしました。

当初希望していたWeb系の企業ではありませんでしたが、今の自分にとっては最高額のオファーと良い企業を紹介してもらえたと思っています。

転職活動については、さらに詳しく書きました。

>>SIerからWeb系に転職しようとしたが、失敗した私の記録

またすぐに辞めてしまう・・・

クラウド環境とSpringBoot、Java8!

なんと転職して一発目の案件は、Google Cloud Platformにリプレースするという案件でした。私はJavaで画面を作ってきた経験から、管理画面を50画面ほど1人で作ることに。フレームワークはようやくStrutsを卒業して、SpringBootになりました。なんか一気にスキルシートが最新化できそうでとても嬉しかったです。なんだ、SIerでもこういう現場はあるんだ!と、SIerを見直しました。

リーダー嫌い!残業嫌だ!

最初は新しい技術が現場で使えることに嬉しくて、ドキュメントも本もたくさん読んで勉強しました。実装も試しながらなので、とても楽しく、充実していたのです。ですが、その時間も長くは続かず。

チームリーダーはもう、10年ぐらいその現場にいる人みたいなのですが、業務知識をチームリーダーしか知らなくて、仕様を決めるのがプロパーではなくチームリーダーみたいになっていました。チームリーダーが必要ですって言ったら、プロパーも首を縦に振るしかないという。進捗が遅れ始めているのに、チームリーダーの判断で機能が現行より複雑化・増えてしまい、残業が嫌いな私はそんなチームリーダーを嫌いになってしまいました。

そうして残業に対する圧力が次第に増えていき、私もだんだんとモチベーションが下がってきました。そして、「俺はこんなイヤイヤ仕事する毎日は嫌だ!」「こんな日々は俺にふさわしくない!」「俺はアフィリで自由を獲得する!」といつもの辞め癖が発動してしまったのです。

ある月初、私はチームリーダーに「会社を辞めます。営業には今朝メールしました。」と言って、2週間程で引き継ぎをして、残り2週間は有給を消化して辞めてしまいました。せっかく転職エージェントに動いてもらい、入社できた会社をあっさり1年程でやめてしまった私。気づけばもう32歳でした。

最後に...あなたなら、サイバーエージェントに転職できる!

ここまで話しを聞いていただき、ありがとうございます。

何が言いたいかと言うと

私の生い立ちや挫折話しなんかを聞いていただきましたが、私が言いたいことは、もしIT業界に入ったばかりの25歳に戻って、転職エージェントに「1年後にサイバーエージェントに転職したいです」と相談していたら、多分、できていたと思うんですね。

(あっ、別に「サイバーエージェントがいい!素晴らしい!みんな行くべき!」と言ってるわけじゃないですよ、全然。GREEとかDeNAとか、他にもスタートアップベンチャーとかでも全然いいです。いいですというか、喜んで行きたいです。

ただ、何となく華やかじゃないですか?サイバーエージェント(笑。美人な社員さんが多いんでしょ?美人がたくさんいる会社で働いてみたいですよね。あっ、SIerでもたまに美人な人っていますけどね。美人じゃなくても、女性がいるだけでもありがたい方か。)

じゃあね、なんで、「多分、できていた」って思うかというと、転職エージェントさんから、SIerの人で、Githubのコミッターとかでない人でも、DeNAに転職できたっていう話しを聞いたからなんです。聞いてみると、思ったよりハードルは高くないみたいなんですよね。

もしIT業界に入りたての頃に、転職エージェントさんに相談して、言われた通りの対策を練っていれば(例えば勉強会とかに参加して、ブログで発信とか)、自分もサイバーエージェントに転職できたと思うんですね。

なので、もしあなたが、Web系の企業で働きたいと思っているなら、早めに(というか「今すぐ」)、行動を起こした方がいいよ。そしたら、楽しくてワクワクした仕事ができるよ、地味な業務システムでも保守でも刷新でもなく、これから初めて世に出るような、新しいサービスの開発に携われるから。

そんな思いから、このサイトを運営しています。あなたの役に立てれば幸いです。

それでは、よろしくお願い致します。←SIerのメールの文末(笑)

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